「どんな状況でも夢を持つ」 ガンバ大阪・和田GMの変化に見出す自分の生き方
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「どんな状況でも夢を持つ」 ガンバ大阪・和田GMの変化に見出す自分の生き方

「この先、どんな未来が待っているんだろう?」
卒業や就職、結婚など、さまざまな人生の転機、あるいは大きな決断をしなければならないタイミングが訪れると、心に浮かぶこの疑問。

とくに新型コロナウイルスが拡大してしまってからは、こうした不安を抱えるようになった方も少なくはないでしょう。先行きの見えない状況に身を置くこと、またそれがわかっていながらその環境に飛び込むことは、とても勇気のいることです。

今回お話を伺ったのは、起伏に富んだ長いサッカー人生を送り、2020年よりガンバ大阪の取締役GM(ジェネラルマネージャー)に就任した和田昌裕さん。会社に属しながら選手として活動する社員選手から、Jリーガーへの転向。また指導者になるための引退、単身海外での監督経験、そしてサッカーチームの経営など。絶えず訪れる人生の大きな変化を柔軟に受け止め、貪欲に自分を変えようと挑戦してきた和田さんの歩んできた道のりには、目まぐるしく移り変わる時代を生き抜くためのヒントが、たくさん隠れていました。

「和田さんにとって、サッカーと関わり続けた人生はどのようなものでしたか?」
選手、監督、経営陣……さまざまな立場でサッカーと向き合い続けてきた和田さんとの対話は、その長いサッカー人生の回想とともに幕を開けました。

サッカーで地元に恩返しをしたかった

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和田: 何十年もサッカーと向き合いながらやってきたこと、すべてが今日につながっているのかなと思います。「サッカーが自分にとってどんな存在なのか」ということはよく聞かれるのですが、サッカー自体が「僕の人生そのもの」なんです。

和田さんがサッカー選手として活動をはじめたのは、大学を卒業した1987年のこと。実に35年もの間、さまざまなかたちでサッカーと向き合い、共に生きてきたことになります。

当時、まだ日本にはサッカーのプロリーグは存在せず、会社との雇用契約を結びながら選手としてプレーする「社員選手」がほとんどでした。和田さんもそうした社員選手のひとり。

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1991年にJリーグが発足すると、安定した社員選手としての人生か、はたまたプロリーガーとしての道を歩んでいくか、大きな決断を迫られることとなりました。

和田: 家族は全員プロになることに反対でしたね……。いまでこそ誰もが知っているJリーグですが、発足したばかりの当時は、安定を捨て先の見えない暗闇を突き進むような道でしたから。

でも最終的には自分自身で「いま目の前にあるチャンスを掴まないと一生後悔するだろうな」と思って、プロになることを決断したんです。

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プロ移籍後、Jリーグ発足後初のリーグ戦では、ガンバ大阪の歴史上初めての得点を獲得。3年後、ヴィッセル神戸に移籍してからは、チームのJリーグ昇格に貢献するため、数多くの試合で活躍しました。その後、1997年に引退を表明してからは、地元のチームでもあったヴィッセル神戸に指導者として残ることになりました。

和田: やっぱり、いろんな方にお世話になってサッカーを続けてこられたわけですから、とくに高校までお世話になった地元の神戸に恩返しをしたかったんです。プロになった当初から最後は神戸で終わりたい、という思いがありました。

ただ和田さんは当時を振り返り、指導者として後進を育てる決意をしながらも、「まだプレイヤーとしてやれるんじゃないか」という葛藤があったといいます。

和田: 正直、心のどこかでは「このまま引退してもいいのか」という思いもありました。とくに最後の2年は出場機会自体少なく、かなり悔いが残るラストになってしまったこともあって。

でも、そのとき思ったんです。もしここで粘って、ほかのチームに移籍できたとしても、それでは僕がヴィッセルに来た意味がなくなってしまうって。もともと故郷であるこの場所で引退して、「これからは後輩や子どもたちの指導をがんばろう」という想いで、僕は神戸に帰って来たんですから。

僕がタイに? 指導者としての苦悩

現役を退き、指導者として第二のキャリアをスタート。その後、ヴィッセルの監督を経て副社長に就任した和田さんですが、その肩書きもあってか、選手たちとの距離感に悩むようになってしまったのだそう。

和田: 現場でのチーム活動とは少し距離感があったんです。実際、経営や運営を望んでやっているわけではなかったので、「現場に戻りたい」という思いが強くなっていきました。

次第にチームとの距離が開いていくことに抵抗を覚えていたある日、当時タイのチョンブリーFCにて監督を務めていた選手時代の戦友ヴィタヤ・ラオハクルさんから思いもよらぬ電話がありました。

「来シーズン、私は監督やらないから、あなたタイで監督やってよ!」

まさに、青天の霹靂。しかし当時は、ヴィッセル神戸の副社長として、クラブを支える身。さすがにそれはできないと断った数日後。ヴィタヤ監督、なんと和田さんの監督就任を勝手に発表してしまいます。

あまりに突然の出来事に困惑しつつも、このフライング発表がきっかけとなり、本当にタイのチョンブリーFCでの監督就任が決定。コメディ映画のような展開で決まったタイへの移籍ですが、和田さんを待っていたのは、外国人監督にのしかかる想像以上のプレッシャー。そしてゼロから選手との信頼関係を築く難しさでした。

和田: 日本のチームが欧州の監督を招いたときの状況を想像してもらえばわかるかと思うのですが、タイの選手は日本から監督がきた! ということで、最初から僕に対して過度なリスペクトを持ってくれていたんです。その気持ちに応じるように結果を出していかないと信頼関係もつくれないという状況は、日本で監督をする以上にものすごく大変でした。

期待に応えようともなかなか結果が伴わず、信頼関係を築くことにも苦戦していたある日、ひとつの試合を境に選手たちとの間に強い絆が芽生えた、と和田さんは語ります。

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和田: 監督と選手の関係というものが、日本での感覚とは少し違っていたんです。タイでは試合での敗北はそのまま選手の責任にされていたけど、僕は監督である自分の責任だと考えていて。

ある大事な試合で負けたとき「今日の敗北は、すべて僕の責任だから、君たちは何も下向く必要はないよ」と話したら、選手たちから拍手喝采されたんです。そのときの拍手が僕を受け入れてくれた瞬間だったのかなと思います。

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それまでは変化を避け、どこかで安定を望んでいたという和田さん。タイでの過酷な経験とそれを乗り越えた体験は、50歳にして自分を大きく変えてくれたといいます。

和田: もともとは変化が好きなタイプじゃなかったんですよ。スポーツ業界という変化の激しい世界にいながら、できるだけ起伏のない道を好んでいたんです。でもあのタイミングでタイに行った経験が、明らかに自分自身を変えてくれた。強くなりましたね、もう変化も何も恐れなくなった。

「変化はこわい」 けど隠れてた夢に気づける

タイからの帰国後は、ツエーゲン金沢の強化アカデミー本部長に就任。約3年の歳月を経て、現在では古巣であるガンバ大阪で取締役GMを務めています。

ヴィッセル神戸の副社長であったときと同じく、選手やチームとの距離はそう近くありません。しかし、コロナで苦汁を飲まされる選手たちが、思い切ってプレーできる環境づくりは、さまざまな経験を経た「いまの自分にしかできないことだ」と和田さんは語ります。

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社員選手からはじまり、発足したばかりのJリーグでの活躍を経て、国内外のチームの監督へ。そして現在、クラブを経営する幹部として選手たちを支えている和田さん。これまでも幾度となく変化を受け入れ、そのなかで自分がすべきことを見つけていったその強かさは、タイでの経験で培った、変化に対する寛容さに由来するのかもしれません。

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和田: あえて変化を選択することは難しいし、どうしてもみんな安定を選んでしまうことが多いと思います。僕もタイで経験したのでわかりますが、変化するってすごくパワーがいるんですよ。でも変化するときっていうのは、ふだん自分に隠れている目標や夢に気づける瞬間でもあります。

若い人や子どもたちに向かって、よく夢を持とうという話をしますが、年齢を重ねたからって夢を持てないわけではなくて。いくつになっても「こういう自分でありたい」とか、「こういうものを目指したい」っていう目標を持っていいんです。一度しかない人生、夢や目標に向き合いながら生きていくことが楽しくやっていくコツだと考えているので、僕はこれからも変化に貪欲に、夢を持ち続ける人生をまだまだ歩みたいなと思っています。

過去には選手として、多くのサポーターや子どもたちに夢を与えてきた和田さん。引退して指導者になり、クラブの取締役へと転身したいまも、変化を恐れず「夢」に向かって歩き続けています。

どんな状況にあっても絶えず変化を受け入れ、そのなかでなりたい自分を見出す。
大切な決断や大きく環境が変わるとき、和田さんが見せてくれた生き方はひとつの指針となって私たちの背中を力強く押してくれました。

「いくつになっても、どんな状況でも、なりたい自分を目指していい」


和田昌裕
1965年(昭40)1月21日、神戸市生まれ。兵庫・御影高、順大を経て87年松下電器(現G大阪)入り。95年途中に神戸移籍、97年限りで引退。J1通算49試合2得点。90年ダイナスティ杯日本代表入り。神戸では監督、強化担当、副社長など歴任。J2京都、タイのクラブでの監督経験もある。ガンバ大阪(G大阪)クラブ史上、初めてOB選手から取締役GMに就任。



「スポーツという言葉は、“deportare(デポルターレ)“というラテン語に由来するといわれています。「気分転換する」というその言葉通り、スポーツは私たちに非日常的な感動や一体感をもたらしてくれます。

しかし、そこで味わった経験や感情は一時的なものではなく、私たちの生き方そのものにも影響を与えているのではないでしょうか――。
「#スポーツがくれたもの」は、スポーツが人々にもたらす変化や、スポーツを通じてその人の価値観が発揮されてきたエピソードを共有する連載企画です。新たな日常の中で、改めてスポーツの価値を考えてみませんか。


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