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車いすだって、やってみなわからんやん──車いすラグビー・倉橋香衣が広げる世界

勝利する喜び、仲間とのチームワーク、粘り強く努力することの価値……。

「スポーツがくれたもの」という言葉からは、スポーツが与えてくれた様々な贈り物が連想されます。では、現役のアスリートたちは、スポーツから何を受け取り、その人生に活かしているのでしょうか?

倉橋香衣さんは、日本代表として活躍する車いすラグビーの選手。かつて、トランポリン競技の中で首を骨折、鎖骨から下の感覚を失う障がいを負ったものの、車いすラグビーに出会い、猛練習の末、女性として唯一の日本代表選手となりました。いったい、なぜ倉橋さんは諦めなかったのでしょうか? 彼女は、スポーツがくれた、かけがえのない贈り物の存在をひしひしと感じていました。


聞き手/平地大樹(プラスクラス・スポーツ・インキュベーション)
構成・文/萩原雄太

体操のおかげで助かった

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倉橋:「やってもうた!! これ、お母さんに怒られるわ」

車いすラグビーの日本代表・倉橋香衣さんは、首の怪我をした瞬間を振り返って、そんなふうに考えていたといいます。当時、大学3年生だった彼女はトランポリン競技の選手として活躍していました。その事故は、大会のウォーミングアップ中に起こったそうです。

倉橋:飛びながら、なんとなくタイミングが合わないなって思っていたんです。けど、「行っちゃえ」って技に入りました。その直後、失敗したことがわかって、あわてて回避したんですが、体勢が空中分解しちゃって……。

首の骨を折る大怪我を負った彼女は、ICUに運ばれて一命を取り留めたものの、鎖骨から下の感覚をすべて失っていました。

倉橋:トランポリンを始める前、私は、母親に勧められた体操の世界からスポーツに入りました。事故の後、母親は「スポーツを始めさせた私のせいや」って、思い悩んだそうです。

いやいやいや、違うやん……!?

今、私が生きてるのは、体操していて首に筋肉がついていたから。体操のおかげで首がしっかりしていたから骨が折れるだけで済んだんですよ。むしろ「体操してたからこそ助かったんや」って思ってます。

普通なら、生死に関わる大事故やその後に残った重い障がいについて語る時、声を低くしながら、シリアスなトーンで語るもの。けど、関西弁混じりであっけらかんと語られる倉橋さんの過去は、まるで、学生時代の何気ないエピソードのように聞こえてきます。

倉橋:事故をしてから思ったんです。「なんとかなるやろ、やってみないとわからんやん」って。

「スポーツのせいで障がいを負った」のではなく「スポーツのおかげで命が助かった」。倉橋さんにとって、自分の障がいは新しい世界との出会いでした。そうして見つけたのが、「車いすラグビー」という新たなスポーツだったのです。

ぶつかっても怒られへん!

しかし、車いすラグビーに出会った時、倉橋さんの心を奪ったのは、その競技としての魅力ではなかったといいます。友人に誘われ、初めて車いすラグビーの練習を見に行った時、練習場には「ガシャーン」「ガシャーン」という大きな音が響いていました。

倉橋:練習を見に行くと、2〜3人の人たちが車いすでぶつかりあっていたんです。それまでも、陸上や卓球、水泳といった障がい者スポーツは体験していたのですが、車いすラグビーは、車いす同士をぶつけ合う迫力があったし、何よりも楽しそうだった。「あ、ぶつかっても怒られへんやん。いいな、やりたい!」って直感的に思いました。

車いすラグビーは、パラリンピック競技で唯一、車いす同士のぶつかり合いが認められているスポーツ。その激しさは「殺人球技」という異名を持つほど。しかも、男女混合で行われるため、女子選手でも体格のまったく異なる男子選手と同じコートでプレイしなければなりません。

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倉橋さんが車いすラグビーの世界に入った当初、日本国内に、女子選手は倉橋さんの他に1人しかいませんでした。しかし、倉橋さんは、そんな男の世界に入ることに抵抗はなかったといいます。だって、彼女のモットーは「やってみなわからんやん」ですから。

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実は、体格で劣る女性選手も、車いすラグビーでは有利な側面があります。それが、この競技独特のポイント制度。

ベンチ入りした12人の選手の中から、4人の選手がラインナップを組んでプレーをするこの競技。それぞれの選手に対しては、障がいの重さによって0.5ポイントから3.5ポイントまでの点数がつけられます。通常、1つのラインナップは合計8.0ポイントまでに収める必要があるものの、女性選手が加わった場合、ひとりにつき0.5ポイントが加算される。

肩と腕の一部しか動かせない倉橋さんの持ち点は0.5。つまり、倉橋さんが出場することによって、チームは、他の3人で8.0ポイントを使うことができる。倉橋さんの存在は、その実力だけでなく、チーム戦略としても大きな意味を持つのです。

こうして、埼玉を拠点に活動するクラブチーム「BLITZ」に入部し、車いすラグビー選手として、新たなアスリート人生を歩み始めた倉橋さん。練習を積み重ね、試合にも出場するようになると、彼女の元に1通のメールが舞い込んできました。

倉橋:そこに書かれていたのは「日本代表合宿に招集します」という文字。第一印象は「何で????」でした。だって、始めてから3年しか経っていない初心者だし、BLITZは日本選手権でも何度も優勝している強豪クラブだから、試合に出場する機会もほとんどなかった。それなのに、日本代表に招集されたんです。

監督と話をしたところ、私の出場によってチームの持ち点が増え、攻撃力の高い選手を配置することができるという戦略的な意味を語ってくれました。でも、代表に呼ばれたからには、ポイントで有利というだけでなく、絶対に他の選手との差を埋めたい。だから、必死で練習しました。

こうして、2017年倉橋さんが合流したことで、チーム全体としての攻撃力を増した日本代表チーム。2018年に開催された世界選手権では、王者・オーストラリアを下し、見事優勝を成し遂げました。

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では、倉橋さんにとって、一番印象に残っている試合とは?

倉橋:初めて日本代表として出場したカナダの国際大会ですね。今から振り返ると、必死でコートを駆け回っていただけでした。でも、試合を通じて、今までコーチから言われてきたアドバイスや細かな戦術など、いろいろなことがつながり「試合ってこんなに楽しいんだ!」って実感しました。

もっと上手くなれば、もっと戦術を理解すれば、もっと車いすラグビーを楽しむことができるはず。結果的にも勝利しましたが、この一戦を通じて、さらに頑張ろうって思えたんです。

広がり続ける倉橋さんの世界

現在、倉橋さんは、代表合宿を一時離脱してコンディションの調整中。日本代表への復帰に向けて、個人トレーニングを積み重ねています。

倉橋:昨年から、新型コロナウィルスの影響で体育館を使えなくなり、チームでの練習ができなくなってしまった。そのため、個人でできる限りのトレーニングを続けました。今は、トレーナーとともにプランを練り、いつでもチームに復帰できるようにトレーニングを進めています。

新型コロナウィルスが猛威を奮っても、倉橋さんのトレーニングは続きます。そうして、再び日本代表としてコートに戻った時、倉橋さんの目には、もっと楽しい世界が飛び込んでくるでしょう。

倉橋:健常者の時って、実は視野が狭いし、知ってる世界も狭いんです。私の場合、車いすになってから自分の世界が広がった。だって、車いすになったおかげで、パラスポーツのことも知れたし、車いすラグビーに出会うことができたんですから。

スポーツによって救われた命は、障がいに直面することによって、世界の広さに触れました。そうして、倉橋さんは、新たな競技に出会い、日本代表として世界中の強豪選手と同じコートで戦っているのです。

車いすに乗った彼女は、いったいどこまでその世界を広げていくのでしょうか?


倉橋香衣
1990 年生まれ、兵庫県出身。大学3年の時、トランポリンの試合前の練習で頸髄を損傷。そのリハビリの過程で車いすラグビーと出会う。2015年には強豪チームへ加入、翌年大学卒業後に商船三井に入社。17年、日本代表に女子選手として唯一選出された。


「スポーツという言葉は、“deportare(デポルターレ)“というラテン語に由来するといわれています。「気分転換する」というその言葉通り、スポーツは私たちに非日常的な感動や一体感をもたらしてくれます。
しかし、そこで味わった経験や感情は一時的なものではなく、私たちの生き方そのものにも影響を与えているのではないでしょうか――。
「#スポーツがくれたもの」は、スポーツが人々にもたらす変化や、スポーツを通じてその人の価値観が発揮されてきたエピソードを共有する連載企画です。新たな日常の中で、改めてスポーツの価値を考えてみませんか。

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