目指したのは「うわ、すごい選手」 ──バレーボール日本代表・清水邦広の原動力
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目指したのは「うわ、すごい選手」 ──バレーボール日本代表・清水邦広の原動力

同じ年齢なのに、そこにあるのは、圧倒的な実力の差。

ライバルとの出会いは、人間を変えていきます。「絶対に負けられない」「なんとしても見返してやる」、そんな気持ちは、外側から与えられる順位付けのためではなく、ライバル同士の意地のぶつかり合いによって生まれる。そして、ぶつかり合った意地は、いつしか人を成長させていく。

バレーボール日本代表の清水邦広さんは、高校時代に、その後のキャリアを決定づけるライバルに出会いました。その出会いは、彼をどのように奮い立たせ、成長させていったのでしょうか?

聞き手/平地大樹(プラスクラス・スポーツ・インキュベーション )
構成・文/萩原雄太

次は失明かもしれない……

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清水さんは、中学時代のバレーボール部監督から言われた、次の言葉をいまだにはっきりと覚えています。

清水: 「全国にすごい選手はたくさんいる。でも『うわ、すごいな』という選手にはなかなかなれない」監督はいつも僕らに向けて、そう話していたんです。でも、当時は「すごい選手」と「うわ、すごい選手」との違いがよくわからなかったですね。

ママさんバレーを行っていた母親の影響で小学校からバレーボールを始めた清水さん。中学校では、地元・福井の強豪中学に進学し、厳しいトレーニングを積み重ねながら、ぼんやりと「うわ、すごい選手」という存在について考えていました。

それがはっきりと分かったのが、はじめてVリーグの試合を生で見たときのこと。

清水: この試合に出場していたサントリーサンバーズのジルソン・ベルナルド選手のプレーを見て、はじめて「うわ、すごい選手」というものが、どういうことかわかったような気がしたんです。それは、単なる技術の上手さだけでなく、周囲を圧倒するようなプレーをする選手のこと。

それからは、ジルソン選手のようになりたいと思い、スパイク練習ばかりしていました。ジルソン選手のポジションはオポジット(セッターの対角に配置されるポジション。スパイク専門の攻撃的な選手が多い)だったので、それを目指してスパイクばかり打っていましたね。

ジルソン選手のプレーを目に焼き付けた少年は、「うわ、すごい選手」を目指して、一心不乱に練習に打ち込みます。しかし、そんな清水さんをある事故が襲いました。練習中に、ボールが目に当たり、網膜剥離(はくり)の大怪我を負ってしまったのです。

清水: 手術のために4ヶ月練習を休みました。その結果、視力は2.0から0.04まで落ち、医師からは、「次に同じ場所に当たったら、失明をしてしまうかもしれない」と言われました。怖かったですよ。

なんとか回復し、久々に練習に復帰して、ボールを触ったとき、今までに感じられないほどの「楽しさ」がこみ上げてきたんです。どんな恐怖を乗り越えても、僕はバレーボールがやりたいって思いました。

目に当たっても網膜剥離が再発しないようゴーグルをしながらバレーボールを再開した清水さん。中学3年生で福井県選抜チームに抜擢され、全国ベスト16までコマを進めます。この大会で、個人としても「オリンピック有望選手賞」を受賞。大怪我を乗り越えた清水さんは、全身でその楽しさを表現しながらバレーボールに打ち込んだのです。

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一度も勝てなかったライバル

そして、高校生になった清水さんは、地元の強豪高校として知られる福井高校へと進学します。

高校時代の目標は、学校史上初となる全国大会ベスト4進出。しかし、その前に立ちはだかった壁が、京都・洛南高校に在籍したある選手でした。

清水: 彼は同じ学年だったのですが、僕よりも身長は3cmくらい低いのに、ジャンプ力が圧倒的。スパイクは、いつもブロックの上から打たれるんです。そんな姿を見て、ジルソン選手を見たときのように「うわ、すごい」と感じてしまった。

同じ学年の選手に対して、そんな感覚を味わうのは屈辱的でした。

その選手の名前は福澤達哉。それは、清水さんにとって、現在まで続くライバルとなった選手との出会いでした。この試合以降、清水さんは福澤さんのプレーを見ながら、「どうやったらこれ以上のスパイクを打てるのだろうか?」と考える日々を送ります。しかし、そんな努力も虚しく、高校時代を通じて何回対戦しても、洛南高校に勝利することはありませんでした。

そして大学時代。中央大学に進んだ福澤さんは1年生からレギュラーに抜擢。片や、東海大学に進学した清水さんは、レギュラーになれず、試合にも出られない日々。

清水: 1年生の終わりに、オールスターという大学生の選抜チームの大会があったんです。福澤はこの試合に1年生から選ばれていて、僕はスタッフとして運営サポートをしていました。この時、僕の役割は、選手としてコートに立つ福澤にボールを渡すこと。この時の屈辱は今でも思い出します。

どんなに努力しても縮まるどころか、圧倒的に開いていくライバルとの差。かつて同じコートで試合をしていたライバルはオールスターで華々しく活躍し、自分は淡々とボールを渡すスタッフ。それは、「すごい選手」と「うわ、すごい選手」との絶望的な差でした。

どん底の経験を経て、清水さんは、ある決意をします。

清水: このままでは、僕は「すごい選手」で終わってしまう。

このオールスター戦をきっかけに、そんな現実に直面し、いっそう激しい練習に打ち込むようになりました。もともと、足腰が弱点だったという自分の肉体を改造するために毎日5kmの走り込みを行い、弱点を克服していったんです。

すると、だんだんスパイクの強さが上がっていきました。大学2年生になると、レギュラーに選ばれ試合にも出場できるようになります。そして、福澤の在籍する中央大学との戦いに挑み、勝利を収めることができたんです。

初対戦した高校時代から5年。その勝利は、清水さんにとって、ようやく福澤さんに追いついたことを意味していました。

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そんな成功体験をきっかけに、ぐんぐんと実力を付けていった清水さんのもとに、1本の連絡が舞い込んできました。それが、日本代表としての2007年ワールドリーグ東京大会への招集でした。

しかし、この招集は、怪我のために戦線を離脱した選手の代わり。連絡が舞い込んできたのも、試合のわずか2日前でした。右も左もわからぬまま練習に参加し、清水さんは、初の代表試合に挑みます。

清水: この時は突然すぎて、プレッシャーを感じる余裕もなかった。だから、試合に出て思いっきりスパイクを打つことしか考えていませんでしたね。しかし、その結果、イタリアやフランスといった強豪国から勝利をもぎ取ったんです。このチャンスをものにできたのは、自分にとって、とても大きな経験になりました。

ライバルからチームメイトへ

この成功が認められ、その後、将来を嘱望されるプレイヤーとして、代表選手の常連となった清水さん。同じく、福澤さんも代表入りを果たし、2人は同じユニフォームを着ながら、北京2008オリンピックの舞台にも立ちました。

そして、大学を卒業すると、2人が進んだのは、Vリーグ・パナソニックパンサーズ。ライバルだった同級生は、一緒に練習を重ねるチームメイトになったのです。

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日本のバレーボール界を担う2人の才能を擁したパナソニックパンサーズは、天皇杯全日本選手権大会、V・プレミアリーグ、黒鷲旗で優勝し、日本バレーボール史上初となる3冠を達成。清水さんは、今やパンサーズでも、代表チームでも、ベテランの域に達しており、若手の精神的な支柱としての役割を果たすようになっていきました。

清水: 2019年は、ワールドカップで大会初となるベスト4にまで残ることができました。北京2008オリンピック以来、オリンピック出場を逃している男子バレーボールにとって、これは快挙といえる成績です。

ただ、まだまだ足りないものは多い。日本でトップレベルのプレーをしていても、世界では通用しない。僕も含めてもっと個々の力を強くしていく必要があります。そして、個々の力を高めると同時に、日本ならではのチームプレーを磨いていく。そうすれば、東京2020オリンピックでも、結果が着いてくるはずです。

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現在、清水さんの年齢は34歳。バレーボールの選手寿命は35歳程度といわれており、引退後のキャリアを考えていく年齢に差し掛かりました。しかし、清水さんは、現役選手としての活躍にこだわると話します。

清水: 僕が長く現役を続けていくことによって、何歳になってもトップチームでパフォーマンスができることを証明したいんです。そのために必要なのが、絶対に満足しないこと。常にもっと上を目指すことが現役選手として厳しい練習を継続していくための原動力となります。

野球ならイチロー選手は45歳まで現役だったし、サッカーなら三浦知良選手は54歳の今も現役です。彼らのように活躍を続けていくことによって、バレーボール界のレジェントとなるのが今の目標ですね。

ライバルとの切磋琢磨は、清水さんを「すごい選手」から「うわ、すごい選手」として脱皮させ、日本を代表するバレーボール選手として成長させました。いったい、そんな「うわ、すごい選手」は、いつまで現役を続けていくのでしょうか?

清水: そうですね……80歳まで現役で活躍したい、かな。


清水邦広
1986年8月11日生まれ、福井県出身。パナソニックパンサーズ所属。ポジションはオポジット。2007年、東海大学在学中に日本代表に選出。2008年、北京2008オリンピックに福澤達哉選手とともに最年少の21歳で出場。2009年にパナソニックに入団後、数々のタイトル獲得に貢献。2009-10シーズン、2013-14シーズンには最高殊勲選手賞、スパイク賞、ベスト6を獲得。2019-20シーズンにはVリーグ通算得点数の日本記録を更新した。



「スポーツという言葉は、“deportare(デポルターレ)“というラテン語に由来するといわれています。「気分転換する」というその言葉通り、スポーツは私たちに非日常的な感動や一体感をもたらしてくれます。
しかし、そこで味わった経験や感情は一時的なものではなく、私たちの生き方そのものにも影響を与えているのではないでしょうか――。
「#スポーツがくれたもの」は、スポーツが人々にもたらす変化や、スポーツを通じてその人の価値観が発揮されてきたエピソードを共有する連載企画です。新たな日常の中で、改めてスポーツの価値を考えてみませんか。



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