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和田彩花さん「心の力」|僕らの時代 Vol.9

若き人びとよ。
つくりあげられた今までの世紀のなかで、あなたがたは育ってきたけれど、
こんどはあなたとあなたがたのこどものための世紀を、
みずからの手でつくりあげなければならない時がきているのである。

(出典:『続・道をひらく』PHP研究所)」

自分らしい価値観をたいせつに、志をもって活躍している人とコラボレーションしていく「僕らの時代」。第9回目のゲストは、歌手の和田彩花さんです。

松下幸之助が未来を担う若者へのこしたメッセージに、今を生きる私たちはなんとこたえることができるでしょう。

アイドル活動を続ける傍ら、大学院にも進学し美術についての知識を深めてきた和田さん。留学中のフランスで感じた「物」と「心」の豊かさについて想いをつづってくださいました。

和田彩花(わだ・あやか)
1994年8月1日生まれ。群馬県出身。アイドル。2009年4月アイドルグループ「スマイレージ」(後に「アンジュルム」に改名)の初期メンバーに選出。リーダーに就任。2010年5月「夢見る15歳」でメジャーデビューを果たし、同年「第52回日本レコード大賞」最優秀新人賞を受賞。2019年6月18日をもって、アンジュルム、およびHello! Projectを卒業。
アイドル活動を続ける傍ら、大学院でも学んだ美術にも強い関心を寄せる。
特技は美術について話すこと。特に好きな画家は、エドゥアール・マネ。好きな作品は《菫の花束をつけたベルト・モリゾ》。特に好きな(得意な)美術の分野は、西洋近代絵画、現代美術、仏像。趣味は美術に触れること。

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和田彩花オフィシャルウェブサイト(http://wadaayaka.com/profile/

★★★

「心の力」

今年からフランスに留学している私は、自分が生まれ育った日本って日常生活を送る分くらいの物理的な環境にとても恵まれた国だとヒシヒシと感じている。そもそも、母国で生活していくというのは多くの人にとって便利なことではあると思うのだけど。

 『続・道をひらく』の一編「心の力」にはこんな言葉がある。

「昨今のようにこうも物が豊富になってくると、いつしか物のみにもたれてしまって、心の力が力として働いてこないようになりがちである。」

 日本では、おおよそどこにでも綺麗なトイレ(ウォシュレットつきで、便座があって温かく、自動で蓋が開閉し、自動で流水される)が点在し無料で使えるのが素晴らしい。キッチンは、弱火、中火、強火なんていう微妙な火加減まで調節可能だ。駅や建物にはエレベーターやエスカレーターが多くの場所(すべてではない)に設置されている。また、シャワーから高温がいきなり出てこないようなロックつきである!

 一方、19世紀に大改造されて以来の建物を使い続けているパリではどこにでも綺麗なトイレがあるわけではない(ウォシュレットはなく、便座は冷たく、蓋も水も手動、ときにお金がかかる)。私の家のキッチンの電気コンロは、熱しにくく冷めにくいので、コンロが温まるのに時間がかかり、温まったと思えばなかなか冷めてくれず弱火なんてないも当然のように感じてしまう。大きな駅にはエスカレーターやエレベーターがあるけれど、駅も建物も階段が多く、重たい荷物やベビーカーで階段に悩まされている人をよく見かける。それから、シャワーの温度調節は少し角度が変わるとすぐに高温や低音の水が出る。それに、水道管というのか、蛇口付近がめちゃくちゃ熱くなるので、狭いシャワー室で水道管に肌が当たらないように気をつけなければいけない。

 単に文化が異なることもあるのだけれど、大好きな19世紀のパリと変わらぬ街並みが続く素晴らしさの裏で、こんな苦労をして生活していたのかと少し驚いた。(それを苦労と感じるのも日本からきた私だから感じること)もちろん場所や状況によって異なると思うが、私が生活している場所は見るからに何も特別なそれではない。

 日本の物理的な豊かさを当たり前に享受してきた私からすると、生活するたびに不便さを感じたりはする。同時に、日本では豊かな環境を当たり前のように享受できるがゆえに?出来ないという状況や立場が見えづらくなってしまっているとも感じる。まさに「物のみにもたれてしまって、心の力が力として働いてこないようになりがち」という一節を考えさせられるのだ。

 とくに、公共交通機関を利用しているときにそれを考えさせられる。日本では誰でも利用できるような環境がある程度整っているにも関わらず、ベビーカーや車椅子での公共交通機関を利用する姿があって当たり前な光景にはまだまだなっていないと感じたからだ。

 こちらでは、古い建物を使い続けているせいか、何をもってバリアフリーというのだろうという疑問が浮かぶほど、階段が多い。重い荷物、ベビーカーで階段を利用しようとしている人には、すかさず手を貸す光景をよく目にする。あらゆる人に開かれているなんて言えなそうなメトロの代わりに、バスでは車いす、ベビーカーの方の利用が目立つ。バスによって異なるかもしれないが、車椅子の方がバスを乗り降りする際には、降車ドアに自動で歩道との段差をなくすスロープのようなものが出るようになっている。ベビーカーでの利用は乗り合わせた乗客が手伝っていることが多い。車内には、ベビーカー2台は確実におけるであろうスペースが確保してあり、東京のバスで目にする椅子を起こして、車椅子やベビーカーの方のスペースを作ったり、バンドのようなもので固定するなどとはまた違った作りだ。ベビーカーは、降車ドアから入ったままの向きで車内にいられて、そのまま下車できる。

メトロに階段しかないという前提があってこそのバスの設備と利用があるとは思うのだけど、朝の通学通勤の時間だっても当然のように利用され、乗り合わせた乗客もそれを当然のものとしていることにはまた驚く。

 時々、日本では車いすやベビーカーでの移動について様々な声が上がる。多くの場合は、利用しづらいと感じる立場からの声であるにも関わらず、ときに心ない、問題なく利用できる立場からの都合が述べられていく。そもそも、車椅子やベビーカーでの移動にかかる時間や事前の準備等には大きな負担がある。エレベーターがどこにあって、どう移動すればいいかを調べ、考えるところから始まる。私たちはその辺にある階段もエスカレーターも利用できるので、どう移動すればいいかを事前に考える必要がない。この差は大きいはずなのに、なぜか利用の難しい立場の声に耳を傾ける、気持ちを寄せることが難しくなっている。

多くの人にとっては便利で快適な社会になりつつあるけど、その裏で誰が快適に過ごすことができていないのかをときに忘れがちだ。

物の豊かさは、あらゆる人に開かれていくことでもあると知った。次は、心の力を使って、多くの人にとって都合の良い社会ではなく、あらゆる人が必要な場面で心おきなく使える社会になっていきたい。



★★★

noteマガジン『僕らの時代』は、様々なフィールドでソウゾウリョクを発揮し、挑戦を続けている方々とコラボレーションしていく連載企画です。
一人ひとりが持つユニークな価値観と生き方を、過去からのメッセージに反響させて“いま”に打ちつけたとき、世界はどのように響くのでしょうか――。

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