自分を愛したら「思い込み」がほどけていった|#思い込みが変わったこと
こんにちは、ソウゾウノート編集部です。
3月25日(金)からnoteコンテスト「#思い込みが変わったこと」が開催されています。
今回のnoteコンテスト「#思い込みが変わったこと」では、多様な価値観や生き方・考え方があることを、コンテストを通じてみなさんといっしょに共有しあったり、考えたりしたいと思います。
今回は、フェミニズムの視点でこれからの社会を考える学生団体「imI(イムアイ)」のメンバー、中村京香(なかむら・きょうか)さんからの寄稿をご紹介いたします。
「#思い込みが変わったこと」のきっかけは、たいせつな人たちからの言葉でした。
「imI(イムアイ)」についてはこちら
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私は自分のことが嫌いだ
「あの子よりその子のほうがかわいい」とか「彼は私よりいい大学だから」とか。「家庭環境悪いらしいよ」とか「お金あるんだからいいじゃん」とか。いつものように聞こえてくる、聞くだけで耳が痛くなるいつもの会話。
家庭環境とか家族構成とか所得とか学歴とか受験とか。みんなが比べて何気なく話題にすることも、自分と他者を比べてしまって嫌になる。 受験に就活、生きていくうえで審査され、価値を定められるライフイベントの多すぎる社会での人生で、私は他者と比較することを止められない自分にうんざりして、そのたびに自己嫌悪してきた。
どんな言葉をもらっても、根本的な自己評価の改善には繋がらなかった。
なぜ? どんなに努力しても、大学に受かっても、欲しかったちょっといい服を買っても、私は本質的に自分を愛することはできない。
物質的ではない特別な経験や教養を得たとしても、結局問題の入り口に戻ってきて「私はかわいくないから」と卑下してしまうし、「私はこの程度だから、バカではないかもしれないけど、天才にはなれなくて、みんなの言う”普通”にうまくはなじめないし」と思ってしまう。いつも結局ここに戻ってくる。
自分の愛せない複雑性、思ったことを口に出してしまう性格、理想ではない顔、肥大化した正義を振りかざしてしまうところ、自分の加害性、足りないステータスとか学歴とか外見とか全部。
自分の努力に裏打ちされた実績があるはずなのに、それを忘れて、何が自分に足りていないのかを探す作業が永遠にはじまる。もういくらでも卑下してしまいそうだから端的にいうけれど、私は自分のことが嫌いだ。
生まれてこのかた、自分を本当に愛せている、と思った瞬間はない。その理由をこれまでは外的要因(親とか閉鎖的な教育環境とか同調圧力の強い日本社会とか)に求めて、彼らが私に呪いをかけている、と思っていた。
実際、海外留学中に出会ったホストファミリーや友人はそもそも”自己を他者と比較して評価する”という概念を持たずに生きていると感じたし、国民性や養育環境によって「比較してしまうかどうか」は大きく変わるものだと思っていた。実際、風土が違えば常識が変わるわけで、その意味ではあながち私の過去の仮説も間違ってはないのかもしれないけれど。
社会の産んだ”呪い”に苦しんで生きていると思っていたけど、自分をむしばんでいたのは自分が自分にかけた呪いだったみたいだ、とあるたいせつな人に最近気づかされた。
社会が悪い、こんな風に自己肯定できない自分になりたかったわけじゃなかった、と思っていたけれど、そこで止まらずに、自分にもできることはあったはずだし、助けてくれる人はたくさんいたから。
つまり、ずっと自分が自分をより苦しめて、愛することから遠ざけていたみたい。
その「思い込み」が変わったきっかけについて長くなってしまうかもしれないけれど、自分の納得のいく、つたない言葉で、紡ぎたいと思う。
「自分を愛することを否定されない社会」で生きたい
治安が悪い地元だった、という理由で私立の幼稚園と小学校に通った。
周囲の同級生は親の車のランクを自慢したり、誰の顔がいいだの、誰が悪いだの、そんな話をすることが多くて、私もそれに加担していた。
中学は「みんなが中学受験をするから」という理由だけで受験した。
そこまで本気でがんばったわけではなかったけど、それでも学校と塾の行き来で時間が消費され、点数で席順が決まり、自分はそのクラスの中ではまあまあ勉強ができるほうだ、というおごりで周囲をバカにする自分が嫌いだった。
塾に行くぐらいなら、内部進学の友だちと遊びたかった。彼らは点数とか学校のランクとか、特訓のクラスがどうだとか、そんなことは気にも止めず、青春を謳歌しているように私からは見えて、それがすごく羨ましかった。
友だちに会うことをモチベーションに塾に通っていた。
結果、通った中学でたいせつな親友に出会えたから結果オーライ、かもしれないけど動機もプロセスも歪みすぎてて、なんか納得はいってない。
そうしてなんとなく入学した中学では、彼らの中の宙に浮いた「普通」から外れたものはすべて否定された。
ジェンダーという概念に対して当時、私に相応の知見があったわけではないが、「性別」という概念で友人を男女に分ける考えを持たない私に異性の友人が多かったことは、“ビッチ”と揶揄(やゆ)された。
高校生になると、半年も経たないうちに学校をやめた。当時人間関係でいろいろとあったことにも起因しているが、おそらく自分は、彼らの思う「普通」の枠に自分がハマれないこと、そこに準拠することを快適だと思えないこと、自分には大学で何がしたいかもわからないのに中高一貫校で、あと3年とくに興味もないことを勉強し続けられる気がしなかったこと、留学に行くことも決まっていたし、全部リセットされればいいやと思ったことで、たくさんの「もう堪忍できないな」と思うフラストレーションが集結して「もういいや、学校やめよう」と思い立ち、次の日には誰にも相談せずに母と学校にいき、わざわざ中学受験から入学して内部進学した高校をやめた。
何かの線がキレて、留学に行くし、失敗しても、なるようになるだろう、と人生で初めて自分を少し信じてみて、この狭いコミュニティを離れて「自分を愛することを否定されない社会」で生きたいと夢を見て、高校をやめた。親しかった友だちにはまじで悪いことしたな、と思ってるけど。
承認欲求全開で生きてみた
長々しい人生の振り返り、みたいになってしまったけれど、
何が言いたいのかって、高校をやめるまで、私はただのメンタルの弱い、コミュ力のない学生で、友だちは少ないし、家庭環境がコンプレックスで、常に自分を卑下していて、集団の中でマイノリティな考えを持つこと、目立った行動をすることが悪だと解釈されうる世界線に生きていて、ちょっとしたことで、もう学校には行きたくないって言い出すし、すぐに学校は休むし、いわゆる世間的な社会不適合者というか、なんというか、そんな子だった。
すべてがネガティブだったわけじゃないけれど、いつも、あの子はおかしい、変わっている、そんな評価ばっかり受けていた気もする。
彼らの「普通」に順応できる女の子ではなかった。自分もそういう求められるキャラクターに合わせた人物像を構築して生きてた。
前述した私のイメージと今の私に対して周囲の人間が持つイメージや評価はかけ離れていると思う。
今となっては「仕事ができる」とか、自分から人に絡みにいくタイプの社交的な人、派手、といったイメージを持たれることが多いけど、生まれたときからそんなわけないじゃない!
課外活動とかインターンとかで「関わりたい!」って言ってくれる人が増えたり、「すごいね〜」って評価されることが増えたり、留学のおかげで多少英語が喋れるとか、大学進学決まったとか表層的な肩書きで、本来よりも過大評価されているところがあるだけで、気が弱くて肩身の狭い思いをしてた私は、今も自分の中に存在してる。
ただ、学校をやめた日を境に、学校では周りの目を気にしてできなかったことを全部やってやろう、と決めていた。ほんとはもっと可愛い顔に生まれてインスタとかに自撮りあげまくりたかったし、承認欲求全開で生きてみたかったし、学校の勉強は嫌いだけどビジネスの世界はのぞいてみたかったし、自分が幼いころから感じてきたジェンダー不平等に対する意見を発信してみたかった。
自分はフェミニスト、と堂々と名乗ってみたかったし、イキってると思われるかな、と気にして買えなかった服を着てみたりしたかった。
全部ぜんぶ、びびっていた自分が悪いのだけれど、もう学校をやめたんだし、もういいや!!と思って全部やってやることにした。留学中は日本という場所から隔絶されて新しい環境だったし、誰にもどんな人間であるべきかを指図されることないし、と思って徹底的にやりたいようにやった。
後天的に手に入れた他者評価と自己評価の溝
そうしたら周りからの評価が変わって、ステータスとか多少ましになった外見とか、そっちを評価されることが増えた。
私の唯一悪くないところ、義理堅いところとか、親友は死ぬほど大事にするところとか、罪悪感に負けて嘘つけないところとかじゃなくて、わかりやすい肩書きとか代名詞の方を評価されることが増えて、そうやって社会的な評価を受けることで、自分も自分の価値を感じられて自己肯定できる、と思ってたのに、外側を取り繕って魅せ方を研究してみたら、今度は愛すべき中身が評価を受けるのに時間がかかることに気づいて、今の私を知って評価してくれている人たちって、ステータスのない自分でも価値を感じてくれるんだろうか、と不安になった。
コンプレックスの外見だってそうだ。ましに見えるお化粧、服、髪型、結構がんばって変えてみたつもりで、今の自分の見た目の方がもちろん好きだけど、私と関わる理由とかメインの価値が、顔とかスペックとかだって言われたらなんか萎える。顔がましになれば私の自己肯定感がミジンコレベルしかない問題だって解決されると思ってたけど、あながちそうでもないらしい。
ああ、本当に隣の芝生は青く見えるんだ、人間は欲張りで仕方がないな。
何も持っていない自分を評価して必要としてくれる友人が人生の初期段階でできていたこともあって、それが当たり前だと思っていたけれど、何も持たない自分でも、どんな状態の自分でも、それを私だと受け入れて愛してくれる人なんてそうそういない。社会的なステータスで自分を武装してしまったらなおさらだ。それらを一枚ずつはがして、その人の真髄に触れるまでにどれほどの時間と信頼が必要なことか。ちょっとやそっとじゃ、そんなことできやしない。
自分のコンプレックスも相まって、何も持っていなかった私はその事実を逆説的に知ることになった。どれだけ他者と自分を比較して、どれだけ社会的なステータスを手に入れようが、それらを媒介にして得た社会的な評価は私が私を好きになれる要因にはなり得なかった。もちろん、努力する過程で自信やプライド、スキルは身についていると思うし、それらは確実に今の私を形作っているけれど、自信と自己愛は並列ではない。直接的な自己愛への解決策ではない。あくまでも私にとっては、だけど。
初めて自分を好きになれた気がした
冒頭で触れた自分が自分にかけた呪い、とはこういった後天的に手に入れた他者評価と自己評価の溝。そしてそれが埋まらないことだ。自分の「ダメなところ、足りないところ」をいくら補填しても自己肯定はできない。
自分を愛することもできない。私が求めていたのは、どんな状態の自分でも愛してもらえること、自分でどんな自分でも愛せること、だったから。
私がするべきだったのは、自分を武装するための努力ではなくて(それはそれで結局別の観点からは役に立ってるから否定したいわけじゃないけど)、自分を既に評価してくれている人の言葉を受け入れて、自分を自分で低く見積もることをやめることだった。だって、何も持ってない何も特別じゃない私を、血も繋がってないのにたいせつにしてくれる人なんか、絶対信頼できるじゃん。
彼らの存在とか過ごした時間を考えたら、初めて自分を少しだけ好きになれた気がした。
自虐して卑下することは、信頼できる彼らのくれた言葉や行動そのものを否定することと同義だし、自分を好きじゃない人間にいくら、「あなたってすごいし大好きだし」って言われたところで信用ならないだろう。
そう思ったら、自分を好きになるということは、人間一人の中で簡潔しなくたっていいんじゃないか、と思いついた。
周囲の人間(私にとってはかけがえのない親友や恋人)がくれたものを無下にしないために、彼らに胸をはって生きるために、そういうモチベーションで周囲の人間を巻き込んでみる、っていうものありじゃん、多少の迷惑をかけたって彼らなら笑ってくれるんじゃないかって思えたし。
誰かの「思い込み」が少しでもほどけたらいいな
最近出会ったたいせつ大切な人に、たくさん素敵な言葉をもらって、それをきっかけに、「私も悪くない」、と思えることが増えてきた。長く付き合いのある友だちに対する信頼とか、また種類の違う信頼を抱けるようになった自分に驚きつつ、比較対象を持たず絶対的な存在として私を肯定してくれていることが、最近のいい意味で自信過剰な自分を後押ししてくれていて、すごくいい影響を生んでいるように思う。
そうやってもらった言葉を自分の中に溜め込んで、辛くなったときに思い出して、そうやってしているうちにその言葉に真実味が生まれていって、やっとそこでもらった評価を消化できるようになる。
だから私も、自分を愛せない、比べてしまう、そんな誰かにとってのモチベーションに、原動力に、自分を認めてあげようって思い始めるきっかけになりたい。私が私の友人に対してそう思ったように、この子のくれる言葉は信用できる、だから自分を愛しはじめてみよう、と思ってもらえる存在でありたい。この願望は傲慢かもしれないし、自己満足かもしれないけれどそうだっていいじゃないか。自分を愛している人生の方が、そうした自分が受け取る言葉の方が絶対に意味があるって知っているから。
だから、今度は私が自分を愛してみることで、周囲を信じてみることを改めて始めることで、自分の言葉に真実味を持たせたいと思う。自分を肯定できている、周囲に愛されている私の発する言葉がまた誰かの原動力になって、信頼に値すると思ってもらえるように。そうやって、その輪をつないでいきたい。ちょっとお節介かもしれないけれど。
私の比較癖も自己肯定感のなさも自分を愛せないことも、すべて外的要因に帰着してるんだからって思い込みも、自分一人でどうにかしなきゃいけないんだって思い込みも、本気で私を愛して必要な言葉と言動をくれる人のおかげで、全部変わった。
この文章を読んだあなたが、もし私と同じようなプレッシャーや痛みを感じていて、コンプレックスがある自分を愛せなかったり、自分の問題だ、どうにもできないんだ、って思ってしまっているのなら。
その「思い込み」を私の言葉で、少しでもほどけたらいいな。