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「傷だらけのローラ」|TOUCH~これからの10年~

こんにちは、ソウゾウノート編集部です。
3月11日――東日本大震災から11回目の春です。昨年ソウゾウノートでは『#それぞれの10年』というテーマで、社内外の方からこれまでの10年を振り返り、想いをつづっていただいた寄稿文をご紹介しました。11年目を迎える今年は、これからの10年をどのように過ごしたいか、未来に向けたメッセージを発信していきたいと思います。

テーマは「TOUCH」。
TOUCHという言葉は、物理的に“接触する”という意味のほかに“感動する”という意味をもちます。このソウゾウノートという空間で、人と人をつなげ心にふれるコミュニケーションを届けたい。それが、これからの10年を歩む力になればと願っています。

一人ひとりのエピソードから、心の復興に必要なことはなんなのか、一緒にソウゾウしていきたいと思います。

そんな想いから始まった今回の連載企画「TOUCH~これからの10年~」。第一弾は、パナソニックセンター東京の井上祐子さんからの寄稿をご紹介します。長年東北でのボランティア活動に参加している井上さんが出会ったYumiさんと「ローラ」の物語です。

井上 祐子(いのうえ・ゆうこ)
パナソニックセンター東京で広報やWebを担当。
大分県出身。2011年より東北を中心に全国を訪れボランティア活動をしている。仕事でもパナソニックセンター東京を会場に復興応援イベントを企画するなど、公私ともに被災地と関わり続けている。趣味はフラワーアレンジメント。

★★★

傷だらけのローラ

Yumiさんとの出会い

私は、東京2020オリンピックの聖火ランナーに選出され、2021年4月に大分県を走った。当日、中津市の山中にある公民館にランナーが12名集結し、聖火の受け渡しなどのレクチャーを受けた。始まるまでの間に、緊張気味のランナー同士で話をしていると、一人の男性ランナーが「走った後にSNSで感想や写真のやり取りをしましょう」とカードを配っていた。そこには大分県の聖火ランナーと、全国の聖火ランナーコミュニティ、それぞれのSNSにアクセスするためのQRコードが印刷されていた。

自分が走った後も、続いていく聖火リレー。私はだんだんと全国の聖火ランナーのコミュニティにアクセスすることが増えていった。コロナ禍で公道を走ることすらできない都道府県のメンバーがそれぞれに発信する。少しずつ私も、読むだけでなく、感想や応援メッセージを送ったり、自ら投稿するようになっていった。

その中で、何だかとても感じがよく、愉快な投稿をする宮城県ランナーのYumiさんに注目するようになった。彼女からもお友だち申請をもらいSNS上での交流がはじまった。Yumiさんの職業はピアノの先生で、私と同い年ということもわかった。

ある日、横浜のピアノ工房で開催されるミニコンサートを紹介する彼女の投稿が目に留まった。宮城のYumiさんがどうして横浜のコンサートを紹介してるのだろう? と不思議に思い、文面の中にあるURLをクリックしてみた。すると、そこには震災直後の宮城県七ヶ浜の生々しい壊滅的な様子の画像が多く掲載されていた。

なんだこれは?

 実は私が震災ボランティアとして、はじめて訪れたのが、宮城県七ヶ浜である。そんな偶然も重なり、何かに導かれるかのように、そのWebページをどんどん読み進めていった。

助け出されたグランドピアノ

2011年3月11日に震災が起きたあと、Yumiさんは2日後の3月13日の16時ごろに、ピアノが置いてある実家になんとかたどり着いた。実家は七ヶ浜の海のすぐ近く。津波の高さがかなりあったのではと推測される。

実家は2階建てで、2階の部屋に置いてあったグランドピアノは、1階部分をダルマ落としのように破壊した津波によって何メートルか流れていた。ガレキをよじ昇って確認したところ、ピアノは左に45度ほど傾いていた。それを見たYumiさんは、「右脚が折れてしまった」と思ったそうだ。のちにわかったことだが、実際は、床板が外れてそのままピアノが傾いていたとのことだった。

このピアノは、Yumiさんが高校入学の際にお父さまからお祝いにプレゼントされたものだったそうだ。その光景を見たときのご本人の衝撃、残念な気持ちたるや想像さえできない。

被災から何日かたち、自衛隊が重機で家屋の取り壊し作業をスタートした。
家屋とともにピアノが壊されていても不思議はなかった。

Yumiさんが依頼したわけではなかったのだが、幸運にもこのピアノは、心あるオペレーターによって原形をとどめた状態で外に救出されていたのだった。

4月上旬、東京から被災地へボランティアにやってきていたシンガーソングライターのMetisさんとそのプロダクションスタッフがたまたまこのピアノの前を通りかかる。Metisさんは、「復興のシンボルとしてこのピアノでもう一度現地の子供達と歌を唄えないか」と思ったそうだ。

その後ピアノの持ち主であるYumiさんを探しあて、ピアノの修復を申し出たのだった。

ピアノの修理先を探す

ピアノはその後、いったん仙台の倉庫(屋外)に移された。ピアノの修理を申し出たMetisさんは、県内のピアノ修理工房を1軒、1軒当たっていった。
しかし、探せど探せど「そんな潮に浸かったピアノの修理なんて無理」と断られる。

県内でダメなら県外を探そうと、東北一円の修理工房を探すがそれもダメ。気がつけば相談をもちかけた工房は、ゆうに100軒を超えていた。

130軒目ぐらいに、横浜市保土ヶ谷にあるクラビアハウスというピアノ修理工房に「津波により被災したグランドピアノを修理してくれるところを探している」と電話をかけると、ご店主が「直るかどうかわからないけど、一度見てみましょうか」と返事をくれた。店主の名は松木一高さん。

たまたま松木さんが、釜石市で津波に遭ってしまったピアノを見に行き、調律・調整したときの様子を話してくれたことで、「ダメ元でもよいのでこのピアノもぜひ見てほしい」という話になったのだ。仙台から横浜の修理工房にピアノが持ち込まれ、被災したピアノは修理を受けることになった。

松木さんが修理を受けた理由は「少しでもピアノ修復の勉強になるなら」。ものを大切にする熱い職人魂に火が付いた。奇跡的な出会いである。Metisさんたちがピアノの修理してくれるところを探し始めてから、2か月が経っていた。


ピアノの修理(前期)

要望や納期などを含め総合的に考えて、前期と後期に分けて直すなどの条件で話がまとまり、修理がスタート。松木さんは、現物を目の当たりにして、砂の多さと、小さな虫がたくさん生息していることに驚いた。Yumiさんの実家が海のすぐ近くにあったため、海水に浸かっていた時間も相当長かったのではないかと推測。ピアノは、設置されていた部屋の中で右側に傾いていたので、右側に砂も多く残っていた。鍵盤周りやアクション(鍵盤を押さえることで連動したハンマーが弦を叩く仕組み)も、右側のダメージが大きかった。

低音の弦部分が断線していたが、「震災の直後は切れている箇所はまったくなかった」との話をYumiさんから聞き、工房に届くまでの2か月間で錆(さび)の侵食が進んでしまったことを知る。その後、ネジを含め、外せる物はすべて外して使用可能か不可能かを選別し、手の入る所は掃除をしていった。

そして、ピアノを工房の屋外に出して水洗いを行った。水がかかってはいけないところはマスキングし、ホースで水をかけ、表面の砂と塩分を極力取り除く。フレームを裏返して、よく洗わなければならない部分には水をかけながらブラシで錆を落とす。解体及び清掃作業の過程で、水分や塩分の影響がどの程度まで広がっているのかを判断する。外装の傷んだ箇所も部品を変えるなど修理を進めた。

前期修理を終えたピアノで、まず始めにMetisさんの歌の伴奏として都内のスタジオにて連日調律をしながらレコーディング。後日CDを聴いてみたところ、さすがにプロの演奏と録音はすばらしくきれいだった。松木さんは、修理を始めるにあたり、水分及び塩分について、普段付き合いのある材木屋さんや金属部品などのメッキ屋さん、ときどきボートで海に出ている友人などに相談したところ、たいへん参考となる話聞くことができ、とても感謝しているという。

こうして修理開始から5か月後の2011年9月、ピアノ修復後初のMetisさんによるコンサートが渋谷で行われ、被災地からYumiさんも駆け付けた。11月には、被災地のすぐ近くの公民館でコンサートが行われ、七ヶ浜町の人たちと岩手県大槌町の園児たちが招かれた。

ピアノの修理(後期)

およそ5か月間にわたるのコンサートが予定通りに終わり、ピアノをもう一度工房に戻し、2月から再点検および後期修理のスタート。

松木さんは、ピアノ内部に残っている塩分がどの程度チューニングピンと弦に影響しているのか気になっていた。残念ながらコンサートで使用した期間で新品のチューニングピンが、想像以上にかなり錆びていて驚く。ピンの入れ替えは長期的にみると難しいことが分かった。

もったいない気がしたが、チューニングピン、弦のすべてを廃棄し、チューニングピンを入れ替え、新品の弦にすべて張り替えた。一度外してあったダンパーを取付け、アクション関係の調整など一通りチェック。数日後の出荷梱包の直前まで何回も調律した。

震災のときに手前半分がはがれてしまった「ファ」の鍵盤の白い部分。一度直したものの、2013年3月16日の演奏時にまたはがれてしまった。海水の影響で接着が弱くなっているのか? と思い、他の鍵盤もチェックしたが特別に異常はなかった。

「震災の傷跡のひとつとなるので、その状態で残したい」

そんなYumiさんの意向で、手前側がはがれた状態のままとすることに 。これ以外に天板の傷などもあえて残した。小さな震災遺構だ。

後期修理が終わった後の2012年3月24日。ふたたび宮城県七ヶ浜町にピアノを運び、国際村ホールで、寄贈を兼ねたライブが行われた。1年前の震災当日はこの施設にも多くの人たちが避難されたそうだ。コンサートの日は前日に降った雪が残っていた。Yumiさんから、震災当日もこの地域に雪が降って「寒い夜だった」と後で聞いた。

その後も復興応援コンサート、修理・調律を繰り返し、ピアノは息を吹き返していく。さまざまなメディアにも取り上げられ、著名な音楽家とのコラボコンサートなども実現していく。

松木さんとの出会い・ミニコンサート

話を戻そう。
修理工房のホームページにあったピアノの復活ストーリーは、私の琴線に触れた。私も小学校から中学校まで約10年ほどピアノを習っていた。そして会社ではものづくりも経験した。前出の、Yumiさんの紹介するピアノ工房でのミニコンサートに行ってみたいと思えた。

2021年9月、横浜まで電車とバスを乗り継ぎ、ピアノ工房「クラビアハウス」のミニコンサートへ。NHK横浜局のテレビ取材も入っていた。Yumiさんはオンラインで、会場の雰囲気を見ていた。

コンサートが始まると2人のドレスを着たピアニストが順に出てきて、秋の名曲や童謡をこの被災したピアノで次々と奏でてくれた。コロナ禍ということもあり、ピアノの音色をじっくり聴くのは何年ぶりだろう。私にはとてもキラキラした音に聴こえた。被災したピアノとは思えないほどの音色だった。東北の人たちは辛かったことを表に出さず、私に微笑んでくれる。このピアノはそんな雰囲気をまとっている。

松木さんがコンサートの途中に、このピアノについてのこれまでをわかりやすく紹介してくれた。

「このピアノには『ローラ』という名前があります。天板や脚は傷が多く残っており、鍵盤も、はがれている。まさに『傷だらけ』。傷だらけ、というとわかりますよね。西城秀樹さんの『傷だらけのローラ』という曲から名づけられました」お若い人にはわかるだろうか。私にはすぐわかった。

コンサートが終わってから、松木さんに挨拶した。「Yumiさんから聞いていますよ。よく来てくださいました」とにこやかに応対してくださった。また、SNSでしかやり取りしたことのないYumiさんと初めて画面越しに言葉を交わした。いつか私が宮城に行くことを約束して、その日は帰った。Yumiさんがどのような思いで聖火ランナーに応募したのかをとてもよく理解することができた。

七ヶ浜を訪ねて

Yumiさんに会いに行くとは言っても、このコロナ禍。いつ行くべきかとても悩んでいた。緊急事態宣言も解除され、ようやく感染も落ち着いてきた2021年11月。私は東北の友人を訪ねて岩手北部から南下する旅に出た。

2泊3日の旅の最後の日にYumiさんと会う約束をした。旅に出る前から、私はあるものを探していた。それは、「傷だらけのローラ」の楽譜。せっかくYumiさんとローラに会うのだ。ローラで、Yumiさんと「傷だらけのローラ」を連弾したいというのが今回の旅の目的だ。

Yumiさんに連弾の申し入れをすると「え~っ、楽譜がないからムリムリ!」と一蹴されそうになった。「いや、もう楽譜は入手している。あとはデータをコピーするだけ。明日持っていくからよろしく!」と私も曲げない。当日の早朝、使い方のよくわからないコンビニのコピー機と格闘しながら、スマホの楽譜データをコピーしてYumiさんの住む塩釜へ向かった。

朝から二人で聖火ランナーのユニフォームを着てトーチを持ち、塩竃神社で撮影したり、名勝松島を遊覧船で見たり、名物の海鮮をごちそうになったりと旅を楽しんだ。そして、最後に七ヶ浜を見に行った後、ローラのいるスタジオへ。

私の帰りの新幹線までにあまり時間もなかったので、私がメロディ、Yumiさんが伴奏を楽譜初見で弾くという練習を3回ほど行って、本番をスマホで録画。へたくそながら「連弾 傷だらけのローラ」は完成し、私は帰途についた。

 帰宅後、松木さんから9月のミニコンサートのDVDが届いていた。メールでお礼とともに、七ヶ浜での連弾の話も伝えた。

「傷だらけのローラ」の歌詞に『今、君を救うのは目の前の僕だけさ 命も心もこの愛も捧げる♪』という歌詞があるが、これは松木さんの歌だと私は思う」と送ると、「そんなふうに僕を思い出してくれるなんてうれしいです」と返事。

松木さんたちのローラを復活させる長い時間の中に、私も少し居させてもらった気がした。

ローラの未来

2022年3月1日~20日までローラは「復興空港ピアノ」として、仙台国際空港に設置される。仙台国際空港の企画で、期間中は、ライブなども予定されているが、それ以外は自由に見学、演奏ができる。

震災伝承施設として登録されている仙台国際空港に「奏でる震災遺構」としてローラを設置、震災の記憶を多くの方に伝え、音楽のちからについても考えるきっかけとするイベントである。

ローラがキラキラした音を奏で続け、Yumiさんが力強く生きていく限り、そして松木さんやMetisさんのようにローラを見守る人がいる限り、この活動は未来へと続いていく。

私も機会があれば、期間中またYumiさんと連弾して、交流を深めていきたい。

もし、この投稿を読んでいる方で仙台国際空港へ立ち寄る機会がおありなら、ぜひローラにTOUCHしてほしい。美しい音色を聴いてほしい。あの未曽有の大震災を乗り越えてきた力強い音に励まされるに違いない。





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