手と手~空にかざして |エクスプレッションD.S 會田もえ
私には、手を見ると思い出す忘れられない出来事があります。
私は、福島県にある『エクスプレッションD.S.』というダンススクールに8歳から通っています。10 年前の震災では、練習スタジオが久之浜の沿岸沿いだったり、メンバーの多くも被害を受けたためスクールは一時解散のような形にならざるを得ませんでした。
被災から1ヶ月後の4月上旬頃、知り合いの方が先生に「避難所の人の為にストレッチをしてくれないか」とお願いしました。先輩達と先生は避難所でエコノミークラス症候群対策のストレッチをしたり、走り回っている元気な子供達とダンスを一緒に踊ったり、時にはダンスを見てもらったり・・・いろんなことをしました。初めは、避難所になっていた文化交流館「アリオス」、それから、原発事故で避難しなくてはいけなくなった富岡の人の為の応急仮設住宅、楢葉町の公民館、いわき市内の豊間という地区の復興団地と、どんどん活動の範囲が広がっていきました。
ほどなくして、子供だった私が活動に参加することとなりました。
最初は、ものすごく怖くてたまりませんでした。なぜなら、先輩たちのように出来ない私が被災された皆さんにどうすれば喜んでいただけるのか、わからなかったからです。でも、皆さんに喜んで欲しくて探り探り活動していくうちに少しわかったことがあります。
私には、人を喜ばせられるものは何もありません。でも、一生懸命やれば、その分一生懸命な気持ちが伝わるのです。初めて、想いが伝わった時、震えるほど嬉しかったです。さらに「ダンスで触れ合う活動」を重ね、名前を覚えてもらえてきた頃、それは起きました。
そのおばあちゃんは、動くのが少し苦手で、「私はいいから」といつも優しく微笑んでくれる人でした。私はなんだか懐かしくて親しみを感じていました。
その日、私はおばあちゃんと二人で世間話をしていました。とてもいい天気の日でした。
突然、おばあちゃんが言葉に詰まって、口に手を当てました。私が驚いていると、ゆっくりと言葉を紡ぐように話してくれました。震災でおばあちゃんの家が無くなってしまったこと、住んでいた豊間の海がすごく綺麗だったこと、親戚や知り合いの方が亡くなってしまったこと。私はただおばあちゃんの目を見て、手を握ることしかできませんでした。
その時込み上げてきた感情は「猛烈に悔しい」でした。どうしてかも何に対してかもわからないけれど、悔しかった。胸が熱くなりました。何だかおばあちゃんの真っ直ぐな目を見れなくて・・・。目を閉じかけた時、おばあちゃんがグッと私の手を握り返してくれました。
「聞いてくれてありがとうね。こんな話」
「はっ」としました。その言葉に精一杯首を振りました。何も言えなかったけど、もう一度手を握らずにはいられませんでした。「ほら、踊っておいで。」そう背中を押され、ダンスする私は、ふとおばあちゃんの顔を目にして笑顔を向けたのです。おばあちゃんは、涙を拭いたハンカチを手の筋が浮き出るくらい強く握り、笑って応援してくれました。
あの時のおばあちゃんの手は、私がそれまで感じたことがないくらい暖かい手でした。今でもそうです。皮が分厚くて、柔らかくて、生命線が深く刻まれたあの手を忘れられません。
私は高校生になりました。一年以上おばあちゃんには会えていません。コロナ禍だからです。会いたいです。でも、会えません。
なのに、手を見るたびおばあちゃんのことを思い出します。だから、いつも近くに感じます。「ひと」ってすごいですね。
「ひと」に臆病で、向き合うことが苦手な私は、本当に「ひと」に救われました。ありきたりに聞こえるかもしれないけど、人を傷つけるのも人間かもしれないけど、人間にどうしようもない危機が起きた時、心の底から救ってくれるのは「ひと」だと思います。
だから、私はこれからもこの手と一緒に「ひと」との人生を送ります。
あの日同じ天気のいい今日、ある舞台の袖で手を見て、空を見上げ、何かに背中を押され誰かに導かれるように、私はスポットライトの下に歩いていくのでした。
震災から10年を迎えた今。
日本は、いえ、世界は未曾有の事態に直面しています。
そのような困難な状況でも、未来を見据え、力強く生きようとする若い世代の人々がいます。
3月中、パナソニック_ソウゾウノートでは、震災から10年を迎えた日本に向けて、そして新たな壁を乗り越えようとしている世界に向けて、次世代から寄せられたメッセージを掲載していきます。
協力:文化プログラムプレスセンター