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#はたらくってなんだろう~社員リレー企画 03~

こんにちは。パナソニックnote編集部です。
投稿コンテスト「#はたらくってなんだろう」の弊社社員による「リレー企画」。
今回は日頃から学生さんの将来に真摯に向き合い続けている採用部門の石黒 正大さんの「#はたらくってなんだろう」に対する想いをご紹介いたします。

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人生で初めて真剣に “はたらくこと” に触れたときの話 |石黒 正大 さん

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はじめに

2000年代前半、ITバブルの崩壊により、日本市場は、景気後退局面、株価下落局面、デフレ局面に入りました。大学4年生の10月1日時点での就職内定率が軒並み60%台前半を記録したこともあり、「就職氷河期」と呼ばれていた時代です。いまの学生の方々には、「就職氷河期」と言われても、ピンと来ないところもあるかもしれませんが、2020年10月1日時点の大学生の就職内定率は、89%にもなりますので、数字で見ると、当時の就職内定率の低さをお感じいただけるのではないでしょうか。

もう20年近く前の話になるので、いまの就職活動をしている学生の方々は、まだ生まれたばかりの頃かもしれないですし、「物心がついていないような昔の話をされても、、、」と思われるかもしれませんが、その当時、浪人生活を送っていた19歳のわたしは、人生で初めて真剣に“はたらくこと” に触れました。

これが今のわたしに続いている、“はたらくこと” の原体験です。ちょっと長い話になってしまいますが、その時の話をしたいと思います。よろしければ、お時間のある際に、ご覧いただけますと嬉しいです。

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わたしが育った7人家族

わたしの実家は、5人兄弟の7人家族。イメージとして、中学校1年から小学校1年までの7年間に、子供たちが5人詰まっているような年齢の近さの兄弟構成で、わたしは長男を担当。幼少期から、どこに行くにも、民族大移動的にみんなで行動する。頑固だけれど人一倍子供思いの父親、おおらかだけれどめっちゃパワフルな母親に5人の子供たちは育てられながら、有難いことに経済的にも不自由なく、自分たちの好きなことを好きなようにやらせてもらっていた。

IMG_6756_家族

※真ん中上の水色シャツが、小4ぐらいのわたしです       

いま思えば、5人の子供を育てるって、いったいどんな家庭状況・経済状況だったのか・・・、いまになって2児の父親になった自分としては、子供を育てるということの大変さ(もちろん喜びもある)は、ある程度わかってきたつもりだが、その実態がわかってくるからこそ、その大変さを痛感する。

いまのように、携帯電話なんてなかったし、緊急の時とか、母は父とどうやってやり取りしていたんだろう。つながりたいときにすぐにつながれるような時代ではないし、いま当たり前に感じているような便利な生活が送れていなかったという意味でも、毎日がとんでもないバトルフィールドであっただろうことは想像に難くない。

5人の子供を育てるなんて、物凄く大変だったはずだが、幼少期から生活面での苦労というのは、まったくと言っていいほど感じなかった。呑気な子供だったわたしは、“はたらくこと”、“お金を稼ぐということ” に、とても恥ずかしい話だが、無頓着であり、鈍感だった。

そんな石黒家の経済状況が一変し、生活を切り詰め、自らお金を稼ぎにいかなくてはならない状況になったのが、大学受験に失敗し、浪人生活をすることになった2003年だ。(なんでそんな状況になってしまったかの話は、さらに話が長くなってしまうので、割愛させていただきます)

周囲の浪人した友人たちは基本的には予備校に行く。二浪はせず、一浪で留めたい気持ちもあり、自分も予備校には行きたいとは思っていたが、まだ妹2人と弟2人は各々高校生・中学生で、学費も当然かかる。予備校に行く経済的余裕などない。いわゆる “宅浪” のスタートだ。苦手な科目の授業や模試を受けるための予備校の授業料や、大学入試の受験料を稼ぐために、受験勉強と並行し、朝晩は受験勉強、日中は引越やオフィスレイアウト工事などの日雇い派遣のアルバイト、夜は公文の先生のアルバイトをしながら、勉強して働いて、という毎日を送り始めた。

日雇い派遣のアルバイトでみた厳しい現実

日雇い派遣のアルバイトでは、初対面の中高年の方々と同じ現場で働いた。中には、不況の煽りを受けて、リストラされてしまった方もいた。昼休憩の際などに、生活状況の話をしてくれた。まさにその日暮らしという言葉の通りだ。

「今月はもっと、バイト入らないと家賃が払えなくなるんだよな」
「事務所に電話して、キャンセル出て、入れる現場がないか聞いてみるわ」
「お金がないし、今晩は具無しのカレーにするか」

その当時、私が登録していた日雇い派遣アルバイトは、案件数に対して、仕事を求める人の方が多くて、働きたくても働けるわけではなかった。案件の取り合いだ。人材派遣の事務所から「明日、現場に出てほしい」といった、無茶ぶりと感じるような急な連絡も入るのだが、仕事があること自体が有難いことなので、皆、急な案件でも、その仕事を引き受ける。そんな状態を目の当たりにした。

そのアルバイトでは、現場に行って初めて、一緒に仕事をするメンバーと顔を合わせる。基本的には、中高年の方々と同じ現場で働くことが多かったのだが、初対面の大人と一緒に仕事をするときに、どういうコミュニケーションを取ったらいいか。どうやったら、大人からかわいがってもらえるか。人生の先輩とはいっても、色々な個性の方がおり、例え性格的に合わないとしても、働く現場からは逃げられない。

特に、印象的だったのが、引越などのトラック運送の配送助手のアルバイト。配送助手のアルバイト経験者から、

「トラックの運転手に嫌われたら、終わりやで」
「配送先の一番終着の場所で降ろされて、そこから自力で帰ることになる」
「気に入ってもらえたら、家の近くまで送ってくれることもあるみたいだ」

と話を聞いた。ちょっとした冗談だったのかもしれないが、未成年だった 純粋なわたしは、なるほどそういうものなのか、とビビっていた。

見ず知らずの遠方の土地に連れて行かれて、そこで降ろされた日には、途方に暮れる。結局のところ、帰るにはなんとか帰れるだろうが、帰宅までの交通費は支給されない。遠方で仕事が終わってから、帰宅するために無駄に交通費をかけてしまうと、その日の日給が実質減ってしまう。一生懸命働いたのに、それはイヤだ。少しでも実家の近くで配送が終わることや、配送終了後、少しでも実家の近くまで送ってくれることを祈りながら、働いた。

人生の先輩から、現場で教えられた大切なこと

毎日のアルバイトで心掛けたこと。いかに大人とコミュニケーションを取るか。周囲が気持ち良く仕事をするために、自分はどう振る舞ったらいいか。挨拶、御礼、謝罪は徹底的にする。笑顔でいることを心掛け、顔色や表情、態度を伺いながら、指示を受ける前に動くように気をつけた。細かいことだが、トラックの助手席に座っているときに、どんなに疲れて眠たくても、目を開いているようにした。運転手の横で、寝ちゃダメだ。頬や腕を思いっ切りつねったりして、睡魔と闘った。

周囲が、コイツと仕事すると働きやすいなと感じるような雰囲気を作る。目上の方に対して失礼にあたることをしない。こういった積み重ねが、結果的に自分に返ってくる、そんなことを体験的に学んだ。

日雇いのアルバイトを始めて、数か月経った頃。
よく現場で一緒になった大人の方が、しみじみと話をしてくれた。

「仕事があること、働く環境があることを、当然だと思っちゃいけないぞ」
「仕事をしているご両親のおかげで、いまのキミは生活できている」
「浪人中ということだけど、勉強も頑張っておいた方がいい。将来仕事をすることになったら、社会のために、なにかの力になれるように、働いてほしい。いまは大変だと思うけど頑張れ」

人生の先輩から、この話をいただいて、人生で初めて “はたらくこと” に触れて、自分自身が痛感した “はたらく環境があることの有難さ”、“お金を稼ぐ大変さ”、そして、“毎日働いてくれている両親への感謝”、こういったものを言葉にして両親に伝えたい衝動に駆られた。

直接、言葉で親に伝えたらいいか。いや、ちょっと待て。そんなこと言ったことないし、かなり恥ずかしい。口では言えそうにない、どうしよう。

いまのように、SNSなども無く、自由に発信できるツールがない時代。  考えた結果、とある新聞の読者投稿欄に、「親への感謝の気持ち」を綴った原稿を送ることにした。ふとカレンダーに目をやると、“11月23日(祝) 勤労感謝の日”と見えた。これだ、この日しかない。勤労感謝の日の新聞に、自分の原稿記事を載せて両親に感謝の言葉を伝えたい。新聞に掲載される日まで、そんなことを計画しているのは、両親には秘密だ。

アルバイトで稼いだお金を使って、こっそり買ってきた原稿用紙に向かい合い、自分の思いを言葉にする。わずか400文字程度ではあったが、原稿を書き上げ、新聞社へ原稿を送る。あとは、掲載記事として、当選されることを祈るのみ。一生に一度しかない2003年11月23日(祝)の新聞に、どうしても掲載してもらいたい、自分としては、渾身の一作だ。

2003年2月の大学受験の合格結果発表以来のドキドキ感で、新聞社からの連絡を待つ。大学受験はダメだったが、なんとか今回は、当選したい。 

原稿送付から数日後、電話が鳴る。

「この度は、ご投稿ありがとうございます。原稿を11月23日の朝刊に掲載させてください。」

きた!キタ!!キタぁぁぁ!!!!

ホントは声を上げたいぐらい嬉しいのだが、喜ぶ気持ちをおさえながら、声がうわずらないよう、落ち着いた様子で、電話応対をしようとする。電話をしながら、小さくガッツポーズした。すぐにでも両親に当選したことを伝えたいが、その日までは、秘密だ。

待ちに待った11月23日は、新聞が届く夜明けまで一睡もできなかった。届いた新聞をポストから取り出し、気恥ずかしさを感じながらも、簡単な感謝の言葉を添えて、ちょっとだけ誇らしい気持ちで、両親へ新聞を手渡した。

あのときの新聞記事

今回のnoteを書くにあたり、掲載された新聞記事を久々に読んでみたくなった。現物は手元になかったため、実家に残っていないか、母に電話した。

「あら、ひさしぶり、どうしたの?」
「浪人中の新聞記事ってある?あれば写真を送ってほしいんだけど」
「いいよ、時間かかるかもしれないけど、探すからちょっと待ってて」

18年前の新聞記事だし、すぐには出てこないかなと、電話を置いた5分後。LINEメッセージと一緒に写真が届く。早い。探すのに時間かかるってなんだったんだ(笑)今でも大事に取っておいてくれた様子。地味に嬉しい。

その当時は、そこまで先のことは考えていなかったが、言葉だけではなく、ずっと保存できる形として “言葉が残る” 新聞記事として、原稿を投稿してよかった。19歳の自分に、もし一言いえるなら、「よくやった」と言ってやりたい。

以下、2003年11月23日(祝)新聞掲載記事、原文。

新聞記事4

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さいごに

 これが、わたしの人生で初めて真剣に “はたらくこと” に触れたときの話です。仕事が出来る環境があることの有難さ、お金を稼ぐことの大変さ、そして、働きながら子供を育ててくれる両親への感謝、そういったものを学ばせていただいた、わたしにとっては、天与の機会でした。

コロナ禍において、世界は一変しました。色々な困難に直面されている方々がいらっしゃる中でも、いまこうして仕事ができていること、生活ができていること、そして、いつどんなときでも味方でいてくれる家族がいてくれること、言葉で表現しきれない程に有難いことだと思っています。

“将来仕事をすることになったら、社会のために、なにかの力になれるように、働いてほしい”

19歳のわたしに対して、この言葉をくれた人生の先輩。いまの自分は、 社会や誰かの力になれているだろうか。人生100年時代、私の人生もまだまだ続きます。社会のために、なにかの力になれるように、 これからも  “はたらく”ということに、向き合っていきたいと思います。

あれから、あっという間に18年が経ちました。未成年だったわたしも、いまは2児の親になり、「親が “子供のために” と思って、はたらくこと」をいつの間にか、やっていました。きっと、5人の子供を育てていた時の両親も、こんな気持ちだったんだろうなと、その気持ちがわかる気がします。

IMG_6757手紙

※2年前、当時5歳の子供がくれた手紙。ちょっとボロボロになってきたのですが、財布に入れて持ち歩いています。はたらく原動力のひとつです。

自分の子供たちも含め、次の世代を生きる子供たちへ、より良い社会を引き継いでいけるよう、微力かもしれませんが、今を生きる大人として、出来ることを一歩ずつ、目の前の1日をしっかり過ごしていきたいと思います。


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