海外市場で、パナソニックを 「憧れのブランド」に育てたい。
「勉強するヒマがあったら、バットを振れ」と父に言われて育った。小さい頃からプロ野球選手に憧れ、高校時代には父の転勤で過ごしたアメリカでも練習に打ち込んだ。しかし、大学2年の時、怪我で野球の道を絶たれてしまう。目の前が真っ暗になった。彼の人生で、初めて味わう挫折だった。野球部を退部後、「新しい道を見つけなくては」と思い、さまざまな本を読みあさった。そして、当時、急速な経済成長で注目を集めていた「BRICS」に興味を持つ。そこに、インドがあった。
大学の紹介で、インドの地方都市にあるマーケティング会社でインターンシップを経験。現地での滞在を通じて、国が発展するスピードの速さと、人々が豊かさを求める思いの強さを肌で感じた。ある町で、日本から持参したPCやデジカメを取り出すと、人々が群がり、触ったり、操作したりするうちにみんなが笑顔になった。その光景を目の当たりにした時、彼の探していた新しい道が見えた。「新興国の人々を豊かにする仕事をしたい」。そんな思いが湧き上がった。
パナソニックに入社後、海外マーケティング本部に配属。エアコンの事業企画を担当する。それから2年後、念願だったインドの販売会社に赴任する。インド市場におけるパナソニックは、1970年代に参入後苦戦し、いったん事業を縮小したが、近年2桁成長を続ける同市場に向けて再び体制を強化している。彼は、そのインド市場での冷蔵庫、洗濯機、レンジ、小物家電の営業・マーケティングを担当。しかし、営業もマーケティングも経験のない彼には、苦難の門出となった。「まわりの人に知識も能力も追いつかなくて、悔しい日々が続きました。でも、負けず嫌いなので、休日にもお店を回って話を聞いたり、さまざまなマーケティングの本を買って勉強したり、死に物狂いでやりましたね」。仕事に慣れてきた頃、洗濯機の新商品の企画に挑戦した。入念な市場調査からパナソニック製品の課題を抽出。洗浄力とデザイン性の2点に絞り、その改善に向けて日本の事業部と何度もやりとりを重ねた。
インドでも地域によって異なるさまざまな種類のカレーの汚れ落ちや、デザインのお客さま評価テストも繰り返した。そして誕生した洗濯機は、たちまちヒット商品となった。また冷蔵庫の現地工場の立ち上げと商品導入にも参画。2年半にわたる長期プロジェクトを完遂し、新工場で生産された新型冷蔵庫は販売を開始して、シェアを前年比5倍以上に押し上げた。「多くの関連部門と一緒にひとつの目標に向かって取り組んだことは、私にとって大きな経験になりました」。インド駐在3年3カ月。彼は大きく成長して日本に帰任した。
現在は、引き続きインド市場の冷蔵庫・洗濯機のマーケティングを担当。収益を伴った増販とパナソニックブランドの浸透をめざし、年間の販売施策や中長期の商品・販売戦略の立案、推進に取り組んでいる。しかし、パナソニックのインド市場でのプレゼンスはまだ低く、日本ブランドとして認識していない人も数多くいるという。「知られていないからこそ、一つひとつの販促活動や新商品の企画が、多くのインド人のお客さまにとって当社との初めての接点となります。今、私がやっていることが10年先のブランドイメージづくりにつながっている。そうと思うと、大きな責任とともに、やりがいを感じます。海外市場で、いつか、パナソニックを憧れのブランド育てたい。それが私の夢です」。彼は、インドとの出会いから光をもらった。そのインドに豊かなくらしを届けるために、今日も全力投球で挑む。
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*所属・内容等は取材当時のものです。